ぼのぼのでいうところの

そう。ぼのぼのでいうところの「もうダメだ~」になる瞬間がある。今がそれだが、こういうのはよくあることで。3年前もこうだったし半年前もこうだったし先月も同じだった。先週も。足元はグラグラしていて不安定。よりかかる何かがないと倒れてしまうし、眩暈を抱えてうずくまってそこからもう動きたくなくなる。でもこういうのはよくあること。

でも分かることがひとつだけあって、こういうときほど、わたしはひとりでしっかり立っていなきゃいけないってことなのだけれど、そう言い聞かせつつも、こういうときにすら、よりかかれるもの、というか人、というかぬくもりがわたしにはないってこと。それをわたしはよく知っている。さみしい人生だなって思うけどだからこそ立っていることができるとも言える。何かによりかかってしまうとそれがなくなったときにバランスを崩して倒れるのはあっという間。なので最初から誰のことも頼らないでいるんだ、というのは紛れもないひとりの女の強がりです。 そばにあるものが「なくなってしまう日」のことを、わたしはいつも手に入れたその日から考えている。そしてその「手に入れたもの」のことだって、本当にこの手のうちにあるのだなどと、思うことも到底できない。

この先も、きっとひとりなんだろうなと思う瞬間が増えた。

それは間違いなく年齢のせいで。数々の失恋のせいで。そして自動的に手に入ったひとりでいる時間とその心地よさのせいで。もう、誰かと人生をいっしょに送るという未来が見えない。ひとりでいいか。それもありだな。好きなものはたくさんあるし、なんの不自由もない。何にも縛られない人生。これほど心地よいものはない。ご機嫌をとらなきゃいけないのは会社の上司か取引先くらい。あとは両親。そして自分。それだけでいい。

いろいろ理由をつけてみるが、それでもやはり、一番は。

正直もう、自分ひとりで生きていくだけでやっとなのだと思う。誰かの人生のことを自分のことのように考えたり、定期的に会う相手との時間だったり、その人のためにある程度は着飾ったり無理をしたりという体力、というか精神力、というか意気込み、のようなものを、もう持ち合わせていることができない。

あるかな、って思ったものが、やっぱりないっていうやつも、しんどい。恋愛と呼ばれるものの、そういう、醍醐味みたいなものが、わたしにはてんで重荷でしかない。自分だけで精一杯で生きているのに、これ以上心を疲弊させるものを増やしていったいどうして生きていこうというのだ。

と、思っていた。思おうとしていたのだけれど。

 

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Nakamura Emiの「いつかお母さんになれたら」という歌がある。

 《なれないかもしれない お母さんには》

 《ならないかもしれない お母さんには》

そして歌詞はこう続く。

 《母が私を産んだ痛みや気持ちは一生わからないかもしれない》

痛い思いをしたいわけじゃない。子どもを産んで育てた母親を尊敬するし素晴らしいとは思うけれどそれでようやく一人前だ~~とか思わない。ただ、ああ、わたしの将来には描くことのできない未来なのかもしれないなと思うと、どうしようもなく胸が痛くなるのだ。悲しさでも寂しさでもやるせなさでもなく、それが諦めとも決心とも思わないのだけれど、この気持ちはきっといつまでたっても上手に表現できない。

こういう話をすると、そういう人生もありなんじゃない、と言われる。そういうふうに生きている人もいるよ、と。それは励ましなのか慰めなのかは分からないのだけれど(まあ、そんな重たいテーマを掲げられたらポジティブな言葉を返すしかないでしょうが)、その度に「ありかどうかは、他人が決めることではないよな」と思う。他人に「あり」か「なし」かの「あり」という評価をつけられたくて人生を歩んでいるわけでもないし、自分が「なし」なのであればそれはもう「なし」なのだし。

というかそもそも、そう簡単な話でもないのだ、これは。

子宮を持って生まれた以上、わたしたち(あえて〝たち〟という書き方をするが)には選択肢があって、それは目の前の食べ物を「食べる」「食べない」だとか行きたいイベントに「行く」「行かない」だとかと同じように、子どもがほしくなってじゃあ突然次の日に「産む」「産まない」みたいに、そういう目先で選択できるものではないのだ。

子どもを産むならせめて35までには、、と考えたとしても結婚後のふたりの時間は2年は欲しいし結婚前には同棲期間もほしい、そしたら30には婚約をするとして、でも恋愛期間は経ないと相手のことを知ることができないから、それまでに出会うとして、、、と考えると、わたしたちにはもう時間がない。こんなことを考えている女性は世の中少なくはないと思うけれど。結婚せずに子どもだけほしい女性がそういう、精子提供とかを考えることも増えたのかもしれないが、それを選択するには自分だけの稼ぎで子どもを養えるようになる必要がある。そんな未来は見えないし、子育てをひとりきりでする自信もない。自分だけで精一杯なんだから。そしてそこには、忘れがちになってしまうけれど、自分が子どもを産むことのできる完全に健康的な身体といえるのだろうか、という怖い一面があるのだ。

イムリミットがどんどん刻一刻と迫ってくる。でも正直それどころじゃない、という気持ちと、今から考えておかないと取り返しがつかなくなるという事実にもみくちゃにされる。取り返しがつかなくなるって、んなおおげさな…と人は思うかもしれないが、おおげさなことなんだよ、これが。今のわたしはまだ平気かもしれないが、10年後のわたしはどうだろうか。寂しい夜に耐え切れなくなって「もうダメだ~」の状態になってしまいやしないか。もちろんそうならないためのパートナーや家族の存在は、あまりいいものとはいえないかもしれないけれど。守るものがあれば強くなるんだってさ、と無責任に歌う人間がいるからこそなんにも持っていないわたしはいつまでたっても強くなれないような気がしてやまない。

答えが出ない。

わたしにはないものをみんなが持っている気がする。

自分を抱きしめてないと壊れそう。殺してくれ。